触れたら後は沈むだけ とても大切なものが壊れていく音がしたような気がした。 言葉にしたことはないけれど、大切だったのだ。彼らとの、日常が。普通とは言えない日常だったけれど、だけれどとても大切だった。目に見えないものなんて信用なんて出来ないなんて思うけれど、そういったものは信用できないからこそ価値があると私は思っている。きれい事だと嗤われてしまうかもしれないけれど。だから、そう、信じていた、だから、だから、誰か教えて欲しい。どうしてこうなったのかを。どうして今、私はこうなっているんだろう。今までは、普通のはずだったのだ。普通の、はずだったのに。 大切なものを大切だと言うことが何が悪いというのだろう。好きなものを好きだということの何が悪いというのだろう。 明確な始まりがいつだったかも、思い出せない。ただ普段と同じように仕事をして、その仕事が一段落したから今日は帰らせてもらおう、そう思ってアクタベさんの机の前まで行ったのだ。 「アクタベさん」 普段と変わらず読書をしている上司の名前を呼んで、帰宅させて貰うべく声をかけると 「失策だった、かなあ」 誰に聞かせるでもなく、一人呟くようにアクタベさんはそういったのだ。何がですか、とそう問うたのは普通、そこまでは普通だったと、そう思うのに。俺はね、と普段口数が少ないはずの上司はまるで劇の台本を読み上げるようにつらつらと言葉を重ねはじめる。 「キミがこんなにも馴染んでしまうなんて俺は考えていなかったんだ。キミには悪魔使いの才能がある、それは一目見てわかったんだ。だから、初めこそ好奇心、だったはずなんだけれど。正直、最近というものの、悪魔を相手にしているのに臆さない君に腹が立つ。毎日、アザゼルを抱きかかえてベタベタするのも、夕飯がベルゼブブの好物のカレーになるのも、君が楽しそうに彼らと戯れているのを見ていると腸が煮えくりかえって仕様が無い」 「は?」 「さて、どうすればいいかな」 どうすればいいと思う?とアクタベさんは目を細めた。けれど、一見、意見を聞いているようでその質問は彼の中で結論が出ているように思えた。それよりも、私はアクタベさんが何を言っているかがわからない。わかってはいけないような気がした。 「さて、そういえば佐隈さん」 「な、んですか」 「君は将来の夢、なんてものはあるの?」 「ゆめ」 「そう、夢」 唐突な言葉だ。ぼんやりとする頭を必死に働かせる。何故だろう、頭の隅では警鐘が鳴り続けている。逃げろ、逃げなくてはいけない。けれど・・・・・・何故?目の前では普段と変わらず、アクタベさんが笑っていて、ただそれだけなのに足が竦む。 「私、普通に就職をして、普通に恋愛して、結婚して、それから」 「―――――――そう、そうだね」 私の言葉の途中で、アクタベさんは頷いた。ぎしり、椅子から立ち上がる。かつりと音をたてて私の目の前に立つ。 「君の未来、そこには俺は居ない」 わかりきっていたことなのにね、とそう言った人に私は目を開く。知らない、私はこんな風に笑う人は知らない。この人は、アクタベさんじゃない。けれど、そうだとしたのならば・・・目の前で笑うこの男は、誰だというのだろう。 「あぁ、そうだ。いいことを教えてあげるよ、佐隈さん」 「なん、ですか」 「そんなに怯えなくてもいいのに」 この人は、何か壊す時ほど、綺麗に笑う。それを知っているから、私は恐怖している。カタカタと震える身体を隠すように、自分の身体を包む。 「さっき、君は言ったね。普通に恋愛してって」 「は、い」 「でもね、それは違うよ」 穏やかすぎるくらいに声、私は、息をのんだ。駄目だ、それ以上言わせてはいけない。お願い、言わないで。警鐘が鳴る。今まで大事に大事に積み上げてきたはずのものが、壊れてしまうような気がした。アクタベさんの口を塞ごうと伸ばした手は掴まれた。ひやりと私よりも低い温度の指が絡む。逃げられないと、いうように。いや、ふるふると駄々をこねる子供のように首を振る私に、けれどもアクタベさんは笑みを崩さない。 「恋はするものじゃない」 じり、と後退しようとしてソファにぶつかる。ソファの存在なんて認識していなかったせいで、バランスが崩れそうになる。体勢を立て直そうとした所で、肩を押された。ただでさえその力を受けきるような状態じゃない。地球の重力に従い、バランスを崩す。ぐらり。堕ちる。堕ちた先は柔らかなソファ。慌てて立ち上がろうとした所で肩を押さえつけられた。まるで標本に針で貼り付けられた蝶のように、動けなくなる。アクタベさんの膝が足の間に割り込む、首を挟むようにして両手を置かれてしまえばもう逃げ場所なんてものはなかった。ぎしり、二人分の重さを乗せたせいでソファが悲鳴をあげる。恋というものはね、物わかりの悪い生徒に教えるようにアクタベさんは再度そう呟いた。唇が、舌が私の耳朶を舐る。ぞわりと身体が震える、心臓が跳ねる、 「――――――堕ちるものだ」 低く、低く囁かれる声に息を呑んだ。私よりも大きくて冷たい手が頬に触れる。触れているだけなのに何故か心臓がドキドキと早鐘をうつ。どうして、なんで、こんなはずじゃなかったのに。喉が渇く、ぶわりと嫌な汗が噴き出すようなそんな感覚。気がつかなければ、堕ちるなんてそんなことにはならなかったはずだというのに。大事に、大事に積み上げてきたものを守れるはずだったのに。どこから、どこから間違えてしまったというのだろう?絶望に視界が、にじむ。もう、戻れない。ずぶりずぶりと沈む先は底なし沼。 堕ちた先には、きっとアクタベさんが嗤っているに違いない。 |