(……どうしよう)

千鶴はその言葉で頭がいっぱいになった。鼻腔をくすぐるのは柔らかな香の馨りで、それは今、この状況が夢ではないということを表している。表しているのはいいが、だからといって、どうすればいいのかがわからなくて動くことが出来ない。言い訳をしてもいいのならば、多分、疲れていたんだと思う。実際、隊士の人数が急激に増えたことにともない、家事が増加したのだ。隊服の数や、膳の数の増加。つもり、つもったその家事の疲労に体が少し休息を求めたというか。要するに……簡単にいってしまえば、居眠りをしてしまったのだ。とはいうものの、自室なので特には問題がなかったはずなのだが、ふいに

「あれ、千鶴ちゃん?」

柔らかな声に、意識がほんの少し浮上した。寝起きだったために明確に視界が見えていなくて、そのおおきくて、茶色いものを見て本能的に

ちゃいろい、いぬ、がいる。

と千鶴は思った。いや、何故なのかと聞かれてもそれが実際に想った事なので何故だかはわからないけれど。ただ、ふいに平助と巡察に出ている時に出会ったあの大きな犬を思い出した。ふかふかで、やわらかくて、あったかい、あの毛並み。半分夢の中に足を突っ込んでいる千鶴にはとても魅力的。だきつきたい、と思うがままそうやって首元に抱きついた。
結果。
千鶴の抱きついたその犬は、温かかったけれど、柔らかくなかった。むしろ硬かった。本来なら獣の匂いがするはずなのに、千鶴の鼻をくすぐるのは上品な白檀の馨。あれ、どこかでかいだことがある。えぇと、誰だっけ。ぼんやりと考えたところ、思い浮かんだのはいつも笑みを浮かべて千鶴をからかうひとの顔。ああ、そうだ、沖田さん。この犬は、沖田さんみたい。と思った所でふいに意識がはっきりして、自分が抱きついているのが沖田みたい、ではなく沖田本人であることに気がついた。息を止める。ここで、沖田が何か言ってくれれば行動できるというのに、こんなときなのに彼は何も言ってくれない。そうして、冒頭に戻る。

「あ、え、お、おおおおおおきたさん!?」
「…………」
何かを言ってくれればいいのに、彼は肝心な時に何も言ってくれない。ただ驚いたように固まっている。それにしても何で、よりによってこの人に。千鶴は顔を青ざめさせた。
「す、すいません!寝ぼけてて、その、間違えまして!」

慌てて手を離し、少しでも沖田との距離をとろうとおもったのに、何故か距離は縮まらなかった。むしろ、ぐ、と頭を沖田に掴まれ、引き寄せられる。

「お、沖田さん?」
「……誰と」
「へ?」
「――――――――僕を誰と、間違えたの?」

押し殺したような声、顔は見えないが不愉快、という雰囲気に一瞬圧倒されて、言葉が出せなくなる。切り殺されるんじゃないか、と思うくらいの緊迫した雰囲気の中。

「い、犬…です」
「…………」

長い沈黙ののちに「は?」と沖田の間の抜けたような声が響く。途端に恥ずかしくなり、千鶴は顔を赤く染め上げた。
「だ、だって!しょうがないじゃないですか!起きたら何だか茶色くて、大きくなものが見えて、なんだか抱きついたらふわふわもこもこしていそう!って思っ、いっ!!!??」
言葉を途中で止めたのは、思い切り沖田に額を弾かれたからだ。そこには女の子相手だからという容赦などは何もない。

「……もういいよ。僕が馬鹿だった」
はあ、と深く溜息を吐いた沖田はそのまま千鶴の部屋を出て行ってしまった。部屋を出た間際、彼の耳はほんの少しだけ赤くて、あれは、なんだったんだろう。ぼんやりとその背を見送りながら、自分の体に少しだけしみついている彼の香にほんの少しだけ顔を赤くした。



黄昏時、見知らぬ貴方との出会い
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