祈りは散りゆく花の如く。

――――――月が欲しい、と子供がそう言った。

その子供の言った言葉に、土方はなにを無茶なことを言ってやがるんだと呆れたのを覚えている。空に浮かぶのは、春の月。
土方は、この春の月が一番好きだ。春、という季節はどこもかしこも浮かれたような、そんな感じがする。穏やかで、そうして陽気な空気が土方は嫌いではない。
子供の言った言葉に土方が空を見上げれば、欠けた場所のない銀色の月は春の到来を喜ぶかのように、普段よりもどこか色付いたように柔らかな光を発していた。淡い金とも、銀ともいえる光は夜を照らし、そうして夜だというのに道を明るく照らしている。
その子供が我儘を言うのはいつものことといえばいつものことで、けれども何に対してもモノへの執着を知らぬ子供であったから、土方はほんの少しだけその発言に対して、意外に思う。
この子供でも何かモノを“欲しい”と思うことがあるのだと。密かに驚いている土方をよそに、土方とは違ってその子供の面倒を積極的に、進んでみている近藤は「そうか」というと、ううむと唸った。おもむろに、空に目いっぱい、手を伸ばす。子供よりも何倍も長い手は、けれども何も掴むことなど出来ない。わかりきっていたといえばわかりきっていた結果に土方は苦笑する。
例え、出来ないとわかっていたとしてもとりあえずやってみる、というのは近藤の持ついいところだ。それが出来る人間など、あまりいないということを土方は知っている。手を伸ばしても、空振った手に、近藤は困った顔をして「やはり掴めんなあ」というと、その手を子供の頭へと載せてわしゃわしゃと掻き混ぜる。
「すまんな、総司」
俺には手に入れなんだ、と近藤の申し訳なさそうな顔に、子供は一瞬、とても焦った顔をして、そうしてすぐになんでもないように笑って見せた。
「冗談ですよ、近藤さん」
少しだけ、近藤さんを困らせてみたかっただけです、と子供にしてはしっかりとした口調で返して、そうして「手を繋いでもいいですか」と甘えるようにそう言った。
近藤はそれに笑い、手を指し伸ばす。本当の親子のような、そんな姿を後ろから見ながら土方は空を仰ぐ。土方のすぐ下にある川辺には、月が浮かんでいる。
「あぁ、そうか」
くつりと土方は笑い、土手を駆けおりる。そうして、月を手にするためだけに、掌を伸ばした。
けれど、いくら伸ばした所で水に触れるわけでもなく、そうして、昔とは違って、月も掬う事はできなかった。何故?かつ、と硬いものに触れる感触に、ようやく、土方は気がついた。
――――――――今、夢をみていたということを。
目を開ければ、そこは多摩の川沿いでもなく、そうして川も流れていれば、そこにあるはずの春の月もなかった。そういえば、あんまりにも眠くて仕事にならないから支障が出ないくらい仮眠をとることにしたのを思い出す。数度、夢の残滓を追い払うように瞬きを繰り返し、そうして苦笑する。何故、今頃、あのような夢を見たのだろうかと。
あの頃は、ただ上へ行くことを夢見ていた。武士になりたいと百姓が言っているのだ、夢を見るのならば寝てから言え、と周りはいつだって土方達を哂い者にしていた。言いたい奴は言わせておけと思いながら、ただ土方たちは、剣の腕を磨いて、そうしてひたすら夢へと向かって走って行った、あの頃。
何も持たない身体はとても軽くて、いつだって土方たちは全速力で走っていた。それが新選組を発足し、そうして京へと移動をして、責任ある立場となって、少しずつ、少しずつ色々な重みが背中へと圧し掛かってきた。夢へと近づけば、近付くほどにそれは重く、けれども同時に誇らしいとも思っていたのだ。
「あぁ、懐かしいな」
ふと笑い、そうして目を伏せた。
いつの間にか、あの頃同じ夢を見ていた者たちと土方は道を別った。人の数があれば、同じだけの夢の数がある。土方の夢と、アイツらの夢が違った。ただそれだけの話で、そうして別にそれは悲しむべきものではない。勿論、寂しい、とは思うけれど。
(そういえば)
土方はふと千鶴は今、何をしているのだろうと思った。
土方たちが道を違えたにも関わらず、そうして土方が一人になったとしても、土方だけについてきた唯一の人間。
土方が窓の外を見ると、土方が夢に見ていた欠けるところのない月とは違い夜の闇を引き裂かんとばかりしている月があった。月の出る頃から推測するに、どうやら土方はほんの少しの間だけ、夢を見ているようだった。
そうして、そのまま千鶴に宛がわれている部屋をみると、まだそこには灯りがある。普段から土方に「無理をするな」といいながらも、千鶴の方こそ無理をしているような気がするのはどういうことか。
土方はまだ体力があるが、千鶴はあまり身体が強いとは思えない。上司として、適度な所で休むこと言うべきか、迷っていると、ふいに千鶴の部屋の灯りが消える。寝るのか、とほんのすこし安堵した土方は、けれども次の光景を見て瞠目する。
部屋の扉があき、千鶴が外へと出てきたのだ。今の時刻は決して女子供が出歩くようなものではない。土方に宛がわれている部屋と千鶴の宛がわれている部屋の角度の問題上、これ以上はどうなっているかは解らない。
彼女を一人でこのままに放っておくことが出来なくて、土方は慌てて外へと出た。







思い当たる限り、彼女の行きそうな場所を探したが、けれども彼女は見つからない。どうしたものか、悶々としていれば、誰かの話声が聞こえた。その場所へと視線を向け、そうして土方は息を飲む。そこに居たのは、土方があんなにも探していた少女と、土方の上司にあたる人間……大鳥圭介だった。
何かを話しているのだろうか、親密そうな様子をみせる二人に、土方の中にわけもわからぬ焦燥が生まれる。じわり。イヤな感覚。その間にも、彼らは話している。そこへと向かったのは、本能に似た何か。その場所に走りだしたのは、いうまでもないだろう。


「こんな夜更けに、うちの小姓になんのようだ、大鳥さん」
切れる息を必死に押し隠して、問う。
千鶴は土方の声にほんのすこしだけ驚いたような顔をして、そうして大鳥は大分前から土方が自分たちを見ていることを気がついていたのか「なにって」ゆるく笑うだけだった。
「男女がこんな夜更けに逢うだなんて、逢引以外になにがあるというの?」
大鳥の挑戦するような言葉にひくりと頬が痙攣する。何故だろう、大鳥は最近、なにかと土方に突っかかってくるような気がするのは土方だけの気のせいではあるまい。
「お、大鳥さん」
現に、困った顔をして千鶴に袖をひかれれば、大鳥は簡単に「しかたないね」とひいてみせるのだから。
「土方さん、大鳥さんは心配して声をかけてくれたんです」
取りなすように、そういった千鶴に土方は眉をひそめる。
「あぁ、庭で月を見ながらぼんやりとしているようだったからね。月に帰られてはたまらないと思っただけだよ」
「もう、大鳥さんってば」
おどけるように片目をつぶった大鳥に千鶴は笑う。どうやら土方の預かり知らぬ場所で仲良くなっていた二人に土方は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「随分、俺と千鶴に対する態度が違うんだなァ、大鳥さん?」
「当たり前じゃないか。雪村くんは特別なんだから」
「へぇ、随分と肩入れするんだな」
土方が半眼になり睨みつけても、大鳥はどこ吹く風だ。
ただ、おろおろとしているのは千鶴ばかり。それを見ているのが憐れになったのか、どうなのかはよくはわからないが、大鳥はふと溜息を吐くと空を見上げた。
「仕方がない、僕は退散するよ。雪村君、おやすみ」
「え、あ、はい。おやすみなさい」
「おい、大鳥さん。俺にはなんかいうことはないのか」
「君には言った所で一文の徳にもならないだろう、土方くん」
じゃあね、そういって手を軽くあげて宿舎の方へと歩いて行った大鳥を見て、そうして千鶴をみやる。
「こんな時間に、お前はなにをしていたんだ」
「土方さんこそ、何をしていらしたんです?今の刻限はまだ仕事をしている時間でしょうに」
千鶴の不思議そうな声に土方は言葉を詰まらせる。なんとなく、千鶴を探していたとは言いづらい。
「……。質問を質問で返すんじゃねえ」
「す、すいません…!」
つい、とそう言った千鶴が何かを持っていることに気がついて土方はそれを見た。記帳だろうか。青い壮丁のその本を千鶴が持っていた所など見たことがなくて、土方は不思議に思う。
「おい、なんだ、それ」
「へ?」
千鶴は一瞬、きょとんとした顔で土方の顔を見ると、それから土方の視線を追って、そうしてそれが己の持っている記帳を見ているのだと気がつくと慌てた様子で隠した。
「な、なんでもないんです」
「……なんだ、それは俺に隠すようなもんなのか」
不快を隠さずに、土方がそういえば千鶴は「イヤ別にだって、たいしたものじゃないんです」と首を振る。
「大したもんじゃないなら、さっさと見せろ」
「だって、本当に面白くもなんともないですよ?」
念を押すようにそういって、千鶴は諦めたのかその記帳を土方へと渡した。


ぱらり、と捲れば几帳面そうな字で日付と、そうしてその日の病人、そうして容態や処置方法などが書いてある。
一人ひとり、丁寧に書かれているそれにほんの少しだけ驚いて、そうして首を捻る。日付は、驚くほど……いや、丁度、総司が倒れるより少し前くらいから始まっているようだった。
格式ばった字は、けれども項の後ろにいけばいくほど柔らかな書体が多くなっていく。
全ての情報を照らし合わせ、この記帳に携わったのは二人、と考えた方が良いだろう。千鶴が持っていたことを鑑みれば、その二人のうち一人は千鶴。
それでは、もう一人は?
「この字は、お前の字じゃねえな」
格式ばった字を指差せば、千鶴は頷いた。困ったように視線を揺らし、そうして唇を開く。
「――――――山崎さん、の字です」
「山崎の?」
「えぇ」
こくりと頷いた千鶴に、山崎の生家は生薬などを主にする東洋医学を専していたのを思い出す。そうして新選組の看護に関する一切を彼にまかしていたということも。
記帳を見る限り、それは自然と二人の仕事になっていったのだろうと土方は推測する。監察方としていくつもの仕事をかけもちしていた山崎は、己が居ない時に限りいつも屯所に居る千鶴へと仕事を頼んだのだろう。
「山崎さんは、たくさんの事を教えてくれたんです。私の家は…父は蘭医だったから蘭学に関していくらでも勉強は出来たんですが、東洋医学の考えというのは全然知らなくて……。そういったら、山崎さんは…ただでさえ、お忙しいのに、様々なことを、時間を割いて教えてくれたんです」
ついと字をなぞり、目を伏せた千鶴に土方はどんな言葉をかけるべきかを悩み、結局はただ千鶴の言葉を黙って聞くだけしか出来ない事を知る。
「山崎さんは死に、今、私は生きている。逆であればどんなにか土方さんのお役に立っていたかと思いながら、けれど、おこってしまったことは覆すことなど出来ない。しかも、それは、ほんの少しの差で反対になっていたかもしれない。それならば尚更、私にはやらなければならないことがあるんだ、とそう、再認識したといいますか」
千鶴はそこまで言って「土方さんには生意気を言うなと言われるかもしれませんね」とふと笑った。
「けれど、そんな風に思ったら、どうしようもなく月が見たくなったんです。江戸の頃、見ていた月、京に居た時に見えた月。どんなに状況が変わったとしても、月だけは変わらずにそこに居るのだと思ったら」
可笑しなものですね、とそういって、千鶴は空を見上げる。
「江戸も、京も、箱館も、場所はあんなにも離れているというのに月は必ず空の上にあるんですから」
「……そうだな、だが」
千鶴が空を見上げるのに倣うようにして土方もそれを視界にいれる。千鶴のいうように、静動浮沈というのは世の常であり、変わらぬものは高嶺にある月くらいしかない。なればこそ、先に散っていった者たちの眺めていた月を、生き残っていたものたちが目指すのだ。けれど、それは、彼女にとっては、
「義務じゃねえ、お前がそうする必要は」
ない、と。それは土方の役割だ、とそう言おうとした土方の唇は目の前に居る女によって封じられる。
「ない、なんて寂しいことを言わないでください、土方さん。私は、背負いたくて背負います。意思を継ぎたい、そう思っているからここにいるんです」
此処に居るのは義務でもなんでもないのだと、女一人では抱えられないくらいの荷を背負っているというのに、そんなことを感じさせないような明るい笑みで、そう言った。その笑みに(あぁ、本当にイイ女だ)と土方は思う。土方には勿体無いくらいの出来た女だ。新選組の屯所に連れられてきた時にはただの幼い子供だったというのに、彼女はいつの間にこんなに成長してしまったんだろう。変わってしまったのだろう。出来ることならば、彼女を変化させたのが己であればいい、とそう思う。
こんなにもイイ女だというのに、当の本人は自覚なんぞつゆほどにもしていないのだから性質が悪い。自覚していれば、土方を追うだなんて馬鹿な真似はしなかろうに。土方よりもいい男は五萬とこの世界に居るだろう。千鶴の事を思い、そうして慈しみ、優しくしてくれる男などいくらでもいる。そうだというのに、彼女はそれでも土方がいい、とそういうのだ。苦労するとわかっていて、わざわざ、土方の背中を追うのだ。
そうして修羅の道を歩いている土方の道を、けれどもなんでもないような顔をして…それどころかその道を歩けるということに対して平然と「幸せです」とそう言い切るのだ。嗚呼、全く、どうして、こんなにも……。
「……馬鹿な女だな」
身の裡に抑えきれない愛しさを隠すように憎まれ口を叩いた土方に千鶴は苦笑する。
ここで土方が彼女に、愛している、と一言でも言えたのならば良かった。お前が此処に居てくれてよかった、と言えれば良かった、ありがとうとそう言って感謝することが出来ればよかった、すまないと謝罪をすることができればよかった。
けれど、それのどれもは、土方には赦されないものばかりだった。それが時折、どうしようもなく歯がゆく感じるのは確かだったけれど。
土方の内心を知らぬ千鶴は、土方のそんな罪悪感にも気がついていないくせに、けれども、離れることはしないのだ。
「それでも、傍にいさせてくださいますか」
千鶴の言葉に甘やかされている、というのを思い知らされたような気がして土方は目を伏せた。土方は彼女が欲する言葉をなにひとつ言わないのに、けれども彼女はいつだって土方の欲しい言葉を惜しむことなく口にする。それはとても有り難くて、そうして同時に切なさも増すばかり。
「勝手にしろ」
土方の素っ気無い言葉に、女は「はい」と従順に頷いて、幸せそうに笑った。
土方は、いつまでたったとしても、高嶺の月を追うことを止めることは出来ぬ。けして掴めぬと知りながらも、けれども土方が歩みを止めないのは半場、意地だ。立ち止まり、振り返らぬ男の背を追い続ける彼女は、本当に幸せなのだろうかと思いながらも、けれども手を伸ばさぬのは唯一、それが、土方が彼女のために出来ることだからだ。
だって、きっと彼女の手を土方が握れば、土方は地獄まで彼女を連れていってしまう。一度、彼女の手の柔らかさを知れば、離すことなど決して出来るわけがない。

いつか、いつの日か、彼女が土方に愛想がつきて、歩みをとめたとき、それか、彼女が他に道をみつけた時、土方に背を向けた時。その時までは、土方はきっと彼女を振り返らないだろう。道を違えたのならばようやく土方は「幸せになれ」と彼女へと振り返り、優しくすることが出来る、笑うことが出来る、背を押すことが出来る。
どうしたって優しくなることの出来ない男は、彼女の幸せを祈ることしか出来ぬ。けれど同時に、土方はその祈りが決して届くことが無いことも知っていた。
こんな狡い男を彼女はどうして選んでしまったのか。
きっと、千鶴は最期の最期まで、土方の背を追うことは止めない、と土方は識っている。例えそこが地獄の最果てだったとしても、彼女は笑ってみせるのだろう。それは、月が変わらず空にあるように。手が届かない月は、けれどもいつだって、そこに存在しているように。


だからこそ、この祈りはきっと、











―――――――――散りゆく、花の如く。




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