今から考えてみれば、それは一目ぼれというものだったのかもしれない。

「大丈夫ですか、神子」

そういって火の粉からゆきを守ってくれたその人は、そういって微笑んだ。長い黒髪はさらさらと靡き、そのひとの着ている純白の衣に目を奪われた。穏やかに笑っているはずなのに、声がとても優しいのに、けれども瞳がとても哀しそうな、そんな人。彼は己のことを天海と名乗った。それがきっと、全ての始まり。

彼が言うがままに四神を集め、けれどもその札はいつの間にか四凶の札と差し替えられ、そうしてゆきの世界は荒廃してしまった。
気がつかなかったのはゆきの落ち度で、確かに天海は嘘はいっていない。ただゆきが勝手に勘違いしただけのことで、騙されたのは自分自身のせい。
けれど、やるせなさから例えゆきが天海を責めても、天海はゆきを「愛しい子」と呼ぶのを止めなかった。ゆきに会いに来るのをやめはしなかった。ただ瞳に愛しいとばかりに柔らかな瞳で呼ばれてしまえば、拒絶することなど到底できるものではなかった。
自分は間違っていないと堂々とした様子のそんな彼を見ていると段々と、錯覚をおこしてくる。自分が間違っているような気がして、けれども天海も間違っているような気がして。そうしているうちに段々と何が本当で、何がいけないのがわからなくなってきてしまった。

「わたしのものにおなりなさい」

そう差し出される手に結局、何度も何度も迷って、迷って。そうして己が出した答えは、天海を止めるという選択肢だった。もっと厳密に言うと、ゆきに残された選択肢はソレしかなかった。
周りは皆、天海に対して敵意を持っている。そうして、天海の存在を忌避している。それは八葉や攘夷派だけの人間ではなくて、味方であるはずの幕府の人からも。出来るのならばこの手で殺してやりたい、そう憎悪の光が籠った瞳で天海に対する恨みを語られてしまえばその辛さを知っているゆきには何も言えなくなってしまった。戦いたくない、などとは口が裂けても言えなかった。それは、きっとゆきの弱さだ。本来、責められるのはゆきであって、天海ではない。天海が幕府に縛られているのも、人をまるで玩具のように扱うのも、それらは全部ゆきのせいなのに。あの時、ゆきが天海に助けをもとめなければ、天海がゆきに手を伸ばせれば、天海が伸ばした手をゆきが掴むことが出来たのならば。この話しを話せば、わかってくれるかもしれない。そうゆきが思って、それから天海の

「そんなことを言っても無駄ですよ」

という言葉を思い出して項垂れた。きっと天海の言うように、ゆきがどんなに天海が哀しいのかを説明しても理解してはもらえない。えてして人は、自分の見たもの以外は信じられないものなのだ。それどころか、折角深まった八葉の絆が壊れかけるだろうことを思い返し、ゆきは肩を落とした。
こんなふうに、答えが決まっても、ゆらゆらと風に揺られる葉のように揺れる決意に、周りの八葉はゆきを責める。何故、どうして、アイツを憎まないんだ、と。優しい人なのだと、ゆきが必死に訴えようとしたのならば「それならばお前はあの所業を見なかったのか」と返される。そう言われてしまえば、ゆきはなにもいえなくなってしまう。人は目に見えるものを信じる傾向がある。それはゆきも、痛いほど知っている。それでも、戦うとは決して言えない、言えぬ自分が情けない。だからといって、天海に身を捧げるということも考えられぬ。いつだって、中途半端。

「……天海、」

ごめんなさい、その言葉を言う資格すらないことに気がついてゆきは唇を噤んだ。どうしてだろう、今、一番会いたくないはずの人間なのに、会いたくて仕方がないだなんて。あの声が聞きたくてたまらない。己のどうしようもなさに呆れて、ゆきは己を笑った。どんなに迷っても、悲しんでも。この手は最初から最後まで、きっと、彼を傷つけることしかできないのだろう、多分。


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