天才というものは凡人には理解できないというけれど・・・そもそもの話、凡人の花が神童と呼ばれた孔明の考えを理解しようとするほうが可笑しいのかもしれない。いつだって、ふらふらしているくせに花の窮地に現れたかとおもえば的確な助言をして去っていく。 そんな孔明に対して、花が持った印象は《水のようなひと》だ。捕まえたと思っても手の隙間から簡単に零れ落ちてしまう。さまざまな形へと変化していくのに、それでも水という物質であることには変わらない。どんなに捕まえたいと願っても、つかまってくれない・・・

「手が止まっているよ」
孔明の声に花ははっと我に返った。慌てて手を動かそうとして、そうしてすぐ隣に積みあげていた書簡を崩した。
「あ!」
せっかく整理したばかりの書簡は、盛大な音を立てて机から落ちていく。孔明は酷く呆れたような顔をした。
「何をやっているのかな、ほんとに」
「す、すいません」
拾いなおし、整理をしなおしていると
「道が見つからない?」
孔明が花を見透かすようにそう呟いた。一瞬、何を言われたかが理解できなかった。否、したくなかった。まるで、孔明は花の選んだ道が間違えだったと指摘しているみたいだ。それは、花が孔明を選んだことが間違いであると指摘しているのと同意義だ。それは、あんまりにも酷すぎる。孔明はいつだって花の間違えを指摘して、それをただしてきたけれど、今、この時だけはそんなことは言われたくなかった。ただでさえ、自分の力不足を感じているというのに。
「違います!」
「でも、まるで」
いつの間に傍に近づいたのだろう。孔明は花の頬に触れ、じっと瞳を覗き込むようにしてみつめた。聞きたくない。花が自分の耳を塞ぐよりも前に孔明は唇を開く。
「迷子のような顔をしているよ」
迷子?
花はその単語にそうかもしれない、と納得する。要するに、怖いのだ。また「いらない」といわれることを想像するたびに。だからこそ花は死に物狂いで勉強している。少しでも早く孔明の役に立てるように。けれど、まだ孔明の役にたつには程遠い。力が不足しすぎている。確かにそれこそ初めて会ったときは文字が読めなかったのだからそれを考えてしまうと成長はしているのだろう。けれど、だけれども。
きっと花がこの不安を無くすには花自身が孔明の役に立っている、と思うまで消えない。花と孔明の関係なんて、ほんとうに大したものじゃない。師弟、という関係だって細い糸で繋がっているしかないもので、やっぱり「他人」だ。孔明のそのときの気分しだいでは簡単に糸は切れてしまう。それこそ、孔明が花を「破門にする」とでもいえばその糸は切れてしまう。そうすれば、孔明と花が繋がるものなんてないわけで。
「花」
顔を伏せた花を咎めるように孔明は名を呼ぶ。のろのろと顔をあげた花に孔明は唇を開く。
「もし帰りたいのならば、僕は」
「師匠!」
「いいから聞くんだ。僕は、別に大丈夫だよ。君が居なくても」
「嫌いです」
驚いたような顔をして言葉を止めた孔明の顔をみても、それでも止められなかった。まるで悲鳴のような、そんな声が花の口から漏れる。
「そういう事を言う師匠は大嫌いです!」
言うが駿し、花は逃げるように部屋を出た。それは「そう」ときっとそういって笑う、孔明の平気そうな顔を見たくないからだ。そうして、花が逃げ込んだのは




「それで、私のところへ逃げてきたのね?」
芙蓉姫は困ったように、そうして呆れたような顔をして眉を寄せた。その言葉に頷いた花に、はあと重々しいため息をつく。
「ごめん。芙蓉姫も忙しいのに」
「あぁ、違うわ。違うのよ、このため息は貴方にむけたものではなくて…あの分からず屋の気にくわない男に対してであって」
どうやら芙蓉姫はあまり孔明に対しての印象は良くないようだと思っていれば「いっそのこと」と芙蓉姫は企むような笑みを浮かべた。
「他の人に乗り換えてしまえば良いんじゃないのかしら」
「え」
想像もし得なかった言葉に花は何度か瞬きを繰り返す。でもそんなことができるのだろうか。花はほかの誰かへと想いを…孔明以外を好きになるだなんて、まさかそんな。想像して、そうして嫌だと思った。花は孔明のそばに居たいし、孔明以外ではきっと花は満足しないだろう。だって、こんなにも好きなのに。そう、好きで好きでたまらないのに。好きだから、こんな風に「いらない」と言われるのを恐れて頑張っているのに、それだというのに自分から孔明から離れるだなんて。
「……虐めすぎてしまったわね」
芙蓉姫はそういって花の頭をなでた。よしよし、と子供にするような仕草に花は芙蓉姫を見上げる。
「もしも離れたくないのならば自分の思っている事をきちんと伝えなさい。あと…そうね、孔明殿は貴方の思っているように出来た大人ではないと思うわよ」




芙蓉姫は“孔明殿は貴方の思っているように出来た大人ではない”と言っていた。確かに、子供っぽい所もあるが、彼は大人だ。いつだって余裕で、だから花に対しても子ども扱いばかり。もしかしたら、自分が問題なのかもしれないけれど。・・・・・・花が子供っぽいのだろうか?つい最近まで女子高生と呼ばれるものをやっていたのだ、子供と一蹴されてしまえばそれまで。でも、だからといって恋人を子ども扱いするのはどうかと思うわけで・・・。なんだか、話の論点がずれているような気がする。

(帰らなきゃ)
そう、思うのに、それにしてもどうにも、帰る足が重い。本来ならばすぐにでも帰って書簡の整理をするべきだ。それはわかっているのだが、どうにも足は執務室には向かってくれない。ふらりふらり、目的もなく(けれど、孔明が仕事で使いそうな場所は避けて)歩いていると、誰かにぶつかった。
「わ!」
「っと、悪い」
そう言って、花を受け止めたのは玄徳だった。ぶつかったのが孔明でないことに安堵するべきか、それともそうではないことに落胆するべきか。こんな所を、師匠にでも見られたらまた溜息を吐かれる、と「ごめんなさい」と身を竦めれば玄徳は「気にするな」と笑った。こういう優しい所が人を集めるんだろうなあと思った花に玄徳はふとなにかに気がついたように首を傾げた。
「こんな所で、何をしているんだ?」
確かに、今の刻限であれば花は孔明のところに居るはずである。なんといえばいいのだろう、と言葉を詰まらせる。ふ、と視線を感じて顔をあげれば玄徳が花の顔をじっと見ていた。
「…あの、何か?」
「いや、考え事か?」
言いながら、玄徳は花の眉間に手を伸ばす。
「眉間に皺が寄っている」
ぐりぐりと伸ばされ(もちろん、力加減はされていたのだけれど)花はその行動に呆気に取られて、そうして思わず笑ってしまう。

「ふふ、」
「どうした?」
「いいえ、なんか元気が出て」
「そうか。それならいいんだが」
「花!」
「え?」

名を呼ばれ、腕をつかまれたかと思えば引き寄せられる。ぎょっとすれば、そこに居たのはどこか表情を強張らせた孔明だった。会いたくないひとに会ってしまった。思わず顔を歪めれば、孔明は一瞬、傷ついたような顔をして、そうしてすぐにいつもの笑みを浮かべた。

「申し訳ありません、我が君。うちの不肖の弟子が何か致しませんでしたか」
「いや、特に何も。・・・それより、どうしたんだ?何か」
「お気になさる程のものではございませんから。・・・いくよ、花」
「・・・・・・・・・・はい」

ぐいと手を引っ張られ、まるで引き摺られるように歩く。連れて行かれたのは、孔明の自室だ。一歩その中に踏み入れたかと思えば、壁に体を押し付けられて唇を塞がれる。ぎょっとして、孔明の体を引き離そうと手を突っ張れば、孔明は苦も無く手首を纏め上げてしまう。その間にも、触れているだけだった口付けはどんどんと深くなってくる。歯裏をなぞり、舌と舌とが絡めあう音が響いて、無性に恥ずかしい。

「ん、ぁ・・・」

ようやく、解放されたかと思えば、足に力が入らなくなってずるずると床に座り込んでしまう。そんな花の様子を孔明は何もいわずに見ている。

「・・・・・・・嫌いになった?」

言葉の鋭さにはっとして、そうして花が見上げた先には孔明が酷く哀しそうな、やるせなさそうな表情を浮かべているのを見て息を呑んだ。その表情に、花は孔明が「いらない」と言い花を傷つけたように花も「嫌い」ということに対して孔明を傷つけていたのだということを知る。首を振り、そうして地面に視線を下ろした花に孔明は顔をあげるようにと言った。

「僕の目を見て」

命令、というよりは懇願の響きが強いその言葉に花は顔をあげる。

「どうして嫌いになったの?玄徳さまの方が良い?」
「違・・・」
「でもさっき」
「違うって言ってるじゃないですか!師匠の分からず屋!」
「分からず屋は花だろ!僕が一体どんな気持ちで」
「師匠の気持ちなんて解る訳ないじゃないですか!いつだって師匠は自分の気持ちを隠してばっかりで、自分でわかりにくいように隠しているくせに解って欲しいだなんて図々し過ぎます!私は師匠じゃないんです、言ってくれないと解りません」

最後のほうは、語尾が弱くなる。けれど、この距離で聞こえぬわけがなかろう。孔明は花の言葉に何度か瞬きを繰り返し「言われてみればそうかもしれないね」と自嘲的な笑みを浮かべて体を引いた。ほんの少しだけ出来た隙間に寂しくなるだなんて、変な話だ。

「・・・・・・ごめんなさい」
「何が?」
「嫌いだなんて嘘・・・」

じゃないかもしれない。嫌いかもしれない。ふと止まった花の言葉に孔明は顔を引きつらせた。

「ちょっと、花?」
「やっぱり嫌です。私、師匠のことが大好きで大好きで仕方が無いんです。それなのに前みたいに「いらない」って言われたり私が居なくても生きていける、みたいなことを言われると泣きたくなります。私、私はだめです。師匠がいないと辛いんです。息をするのも辛くて、」
私ばかり好きみたい。
いいながら、なんだか泣きそうになってきた。じわり、と浮かんできた涙をどうにかして止めようと乱暴にこすっていると

「あぁ、ほら。そんなに擦って・・・赤くなっている」

と呆れたような声色で孔明が花の手首を掴んで、そうして唇を寄せた。いきなりの行動に驚いて涙が引っ込んでしまう。

「あと、“私ばかりが好きみたい”っていうのは聞き捨てがならないよ」
「だって」
「僕は君が幸せならいい。それが愛だとは思わないの?」
「・・・なんか、それじゃあ恋人っていうよりは親子みたい」
「まあ・・・否定はしないけれどね。でも、そうだな・・・君の嫌いに動揺して仕事が手につかなくなるくらいには君が好きだよ。本当は、君が居なくなっても平気だとそう思っていたんだけれどね・・・実際は、違ったみたいだ」
「え?」

声が小さくて聞こえなかった。瞬いた花に孔明は「二度は言わない」と顔を背けた。

「う、酷い」
「でも、僕も悪かったかな。君が不安に思っていることを気づいてやれなかったんだから」
ごめんね、と自分の非を認める孔明がなんとなく物珍しくて花はきょとんとした。そんな花に何を思ったのか孔明は笑う。

「これからは、花が不安に思う暇がなくなるようにうんと愛してあげる」
・・・何故だろう、その宣言に一瞬ぞくりと背筋に走った。藪をつついて蛇・・・龍を出してしまったような気分。なんともいえないような表情を浮かべてしまったのだろうか、孔明は目を細めると「君が望んだことでしょう?」とそういった。そうして、何気なく(そう、それは明日の天気でも口にするように)
「じゃあ、仕事をしに行くよ」 とそういった。行く先に待ち構えていたのは机に載りきらずに床に積み上げられている書簡の山。唖然とした花に
「花を探すのに時間がかかって仕事が山積みなんだよねえ」
と飄々と宣った。続けて、勿論君が原因だから手伝ってくれるよね?とも。晴れやかな笑みで言われた言葉に花が悲鳴をあげたのは言うまでも無い。





巧妙に隠された気持ち

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