亮は、花の師匠が嫌いだった。彼女の“師匠”はとても立派で、優しくて、そうして素晴らしい人物だと彼女はそういって笑っていた。師匠のことを話す時、彼女はとても楽しそうで、そうして優しい目をしていたのを覚えている。花にとっての特別。それだけでも亮は羨ましかったのに、それだけではなく、師匠も花のことが特別だったんだろう、とか彼女の話を聞く限りでは亮はそう思ったから。

だから、亮は花の師匠がとてつもなく嫌いだった。けれど、その花の師匠は晏而のように亮の傍に居るわけでもないから邪魔することもできぬ。雲の上の相手には、決して届かないことがとても歯がゆくて。今思えば、それは初恋の相手に対する嫉妬だったのだろう。
花が亮の目の前から消えて、亮は孔明となった。そうして、孔明となった亮の前に花が現れ、その時にその師匠が自分のことであると気がついた時、とても複雑な心境になった。要するに、亮は10年後の自分に嫉妬していたことになるのだから。結果的にはそれは喜ぶべきなのだろうか。それとも悲しむべきなのだろうか。

けれど、隆中で彼女に再会したとき、帰りたいと彼女がそう言った時。孔明はこの想いを隠すことに決めたのだ。決して彼女の枷にはなりたくなかった、なってはいけないと。彼女は孔明にとっての光だ。知識の大切さを教えてくれた、優しさを与えてくれた。様々なことを彼女から学び、そうして何度も助けてもらった。だからこそ、彼女から受けた恩を仇で返すような真似は決してしたくなかったから。


ふ、と気がつくともう月が空高くに上がっていた。玄徳軍にきてからというものの、今まで隠居していた分を清算しろとばかりに仕事に追いまわされる日々。気がつけば夜明け前、なんてこともよくあって、時折仕事に集中しすぎてしまうと同じく仕事場をともにしている花まで巻き添えにしてしまう。しまった、と眉を寄せて慌てて花を呼ぼうと口を開いた孔明は、慌てて口を閉じた。目の前にはすやすやと眠っている少女がひとり。

「……師匠を残して、一人ぐーすか寝ているとか、いい度胸だよねえ」
彼女が起きないように小さな声で、孔明は小さく笑った。穏やかな寝顔で眠る少女は、とてもあの時の“仙女”には見えないから面白いものだ。とりあえず上着でもかけておくか、と起こさないようにそっと上着をかけてやれば、花がふわりと笑った。そうして、もごもごと何かを言った。何を言っているんだろう、興味本位で耳を近付けば花は「ししょう」と呟いて、また穏やかな寝息をたてはじめる。かつて、亮が羨んでいた花の“師匠”への思慕は、今は己のものとなったわけで。
「……まったく」
人の気も知らないで。
冗談めかして、無欲なふりをしてならばいくらでも触れられるけれど、どうにも相手に意識がないと駄目だ。孔明が花を想っている、という気持ちが指一本触れるだけでもばれてしまうようで、恐ろしくて触れられない。体を離して、そうして伸ばしかけた指を握りしめた。

「君にとっての師匠は本当に素晴らしい人間だったのかねえ」
騙されているよ、と孔明は苦笑を浮かべた。彼女が自分に対してどんな印象を持っているか、というのを知っている。知っている、というよりは“覚えている”の方が正しいのかもしれない。彼女と別れてから、いつだって亮は“彼女の師匠だったらどんな行動をするだろうか”ということを考えていた。だから、こうやって孔明が花に触れたいと思うのは、間違えだ。彼女の師匠ならば、きっと彼女の幸せをなによりも考えて、そうして例え彼女を想っていたとしても身を退くだろう。


「―――――幸せになりな」





それが、きっと師匠の務め。
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