その日は、たまたま一ノ瀬さんが忙しく、私一人でレコーディングルームで作業をしていた。いくつもの音を拾い上げては繋げていく単純作業。ある程度めどがついたので休憩をいれようかと伸びをしたところで、影が差した。あれ?誰か来たのだろうかと視線をあげれば、そこには此処には絶対にいないはずの人が居た。言葉を失うとはまさにこのことだろう。

「春歌ちゃんはー、やっぱりおまじないとかってやるのかにゃ?」

にこっと笑って、私の顔を覗き込んだHAYATO様に私は固まった。え、なんでこんな所にHAYATO様が!?動転しかけて思わず叫びそうになった私の唇をHAYATO様は人差し指ひとつで押さえて見せる。
「今はお忍び中―!だからシィー≠ネの。わかった?」
「は、はい……」
「トキヤに会いに来たんだけれど、どうやら居なかったみたいでさあー。で、春歌ちゃんを見つけたから来ちゃった」
「そ、そうなんですか…」
自分の弟のパートナーだからだろうか。時折、こうして構ってくださることがあるというか、なんというか恐れ多いというのが本音です。HAYATO様の笑顔を直視できなくて、私は視線を横にずらした。こんな素敵な笑顔が半径1メートル以内にあるだなんて、もしかしたら私の運は使い果たしてしまったのかもしれない。っていうか心臓がドキドキして死んじゃう!
「ね、質問の答えはー?」
「え」
「おまじない。春歌ちゃんだって女の子でしょ、やっぱりするの?」
「い、いいえ」
「あれ、そうなの?じゃあ、やってみよっか」
「え、えぇええ!?」
いきなりの展開についていけずに声をあげれば、HAYATO様は困った顔で「嫌なのかにゃ?」と首を傾げた。そ、その顔は反則です…!
「実は、次の番組でおまじない特集≠ンたいのをやるんだけれど、やっぱり先にやっておいたほうがいいかなあって。出来れば、協力してくれると嬉しいにゃー」
「わ、私でよければ…」
こくこくと頷けば、ぱっと表情が明るくなる。何故だろう、一ノ瀬さんと全く同じ顔だというのに表情だけでこんなにも違うように見えるだなんて、不思議だ。
「やっぱりねー、ここは恋のおまじないかなー」
「恋、ですか?」
「うんうん」
にこにこと上機嫌なまま頷いて、ポケットからがさごそと何かを取り出すとHAYATO様はそれを机の上に置いた。
「マニュキュア?」
「正解!今日はこれを使いまーす」
「は、はい」
「左手の小指に油性ペンで好きな人の名前を書いて、真っ赤なマニュキュアを塗るんだよ。で、そのマニュキュアが自然に落ちるまで、好きな人の名前が周りにバレなければ片思いが叶うっていう話らしいよ」
にこにこーと笑ったHAYATO様に私は困った。好きな人。そう言われてもあまりピンとこないのだけれど、折角ここまでHAYATO様が準備してきてくれたのならやらないわけにはいかないだろう。
「春歌ちゃんはあー、誰の名前を書くのかにゃ?」
「えぇっと、そうですねー……はっ!何を普通に聞いてらっしゃるんですか!バレたら叶わないんですよ!」
「あれ、バレちゃったにゃー。残念」
「うぅ、酷いです、HAYATO様…」
「あはは!」
からかわれているだけだとはわかっていながらもどうしても彼のやることなすことに動揺してしまうのはどういうことだろうか。いやでもこれこそがファンの宿命というかなんというか。
HAYATO様が自分の指に先に書いているのを見て、私も書かなければいけないとペンを持つ。好きな人。その言葉に、ぱっと顔が出てきたのは私のすぐ後ろにいる人の顔なわけで。まあ、誰を書いてもバレないからいいか。と思いながら私は自分の小指にHAYATO様≠ニ書いた。できるだけ丁寧に、綺麗に。

「あれ、ぼくの名前だ」
「!!!」

集中しすぎていたのか、いつの間にかHAYATO様が私の背後に立っていたのに気がつかなかった。思わず茫然とする。そんな私に構わず、HAYATO様は
「嬉しいにゃー、両思いだにゃー」
にこにことそう言って、笑いながら左手の小指を私へとみせる。

春歌

とそこには書いてあった。これは、どういうこと、だろうか。いやいや、まさか、そんな馬鹿な。都合の良い考えしか思い浮かべることができなくて、私は首を振った。
「春歌ちゃん、動いちゃだめだにゃー」
言いながら、慣れた動作で紅いマニュキュアを小指に塗る。ふわんと特有の香りに頭がくらくらしたような気がした。
そもそも、HAYATO様はお優しい方でいらっしゃるんだからこれはファンサービスの一環であって、その、それにしてもなんてHAYATO様はお優しいんでしょう……。と、思考がどこかへ行きかけてしまった所にHAYATO様は「そういえば」と首を傾げた。

「春歌ちゃん、携帯持ってるー?」
「へ?あ、い、一応…」
「貸してー」
「え、あ、はい」
言われるがままに携帯を手渡すと、HAYATO様はその携帯を開いて何かを打ち込んでいるようだった。
「うん、完了―」
「あ、あの何が」
「ぼくのアドレス!いれちゃった!」
言葉を失う。え、えぇええええええええ!と思わず叫び出しそうになる口を慌てて自分で塞ぐ。そんな様子を見て、HAYATO様は楽しそうに笑って見せた。
「確認してみる?」
そういって、自分の携帯を取り出してボタンを一つ押してみせた。5秒後、私の携帯が鳴りだす。HAYATO様の曲だ。一瞬、HAYATO様は、それに驚いた様子だったけれど、すぐに笑って
「嬉しいにゃー」
と一言。私は顔を赤くするしかなかった。ふいに、HAYATO様は時計を見て「あ!」と立ちあがった。
「ごめんね、春歌ちゃん。ぼく、もう行かなきゃ」
「だ、大丈夫です。お仕事頑張ってきてください!」
「うん!今日も頑張るにゃー!」
にこり、と笑ってそうしてHAYATO様は私の頬に唇を落とし……え?

「じゃ、メールするね!」

ぽかん、としている間にHAYATO様は帰ってしまって、私は一人教室に立ちつくした。もしかして、夢?夢だ、と言われてしまえば納得してしまうだろうと思った。今、本当に何がおこって……。
というかもしかしたら夢をみていたのかもしれない。思わずそう思って、私は自分の頬を思い切り、つねってみた。痛い。ということは、どうやら夢じゃないようだと思って、それから自分の携帯見つめた。夢ではないことを示すように、左手の小指は赤く染まっていた。

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